美しさとは距離のことだ。遠く、遠く、どんなに手を伸ばしても届かない、向こうにある輝かしいもの。その先にまたある闇。果てのないもの。宇宙。二宮匡貴は瞑目する。夢の中できらきらと星が廻っている。きりきりと歯車が廻っている。それがやがて霞んで飛蚊症のようになって光がこぼれて光は、それを反射する埃は、二宮匡貴ではない。二宮匡貴は澄んでいる。澄んでいて何者でもない。否、何者でない、なんて事はない。対近界民防衛機関ボーダー所属二宮隊隊長、二宮匡貴。彼は、只、その時、黒いスーツの形をした隊服に身を包み、何も出来ずに佇んでいた。それだけだ。
二宮隊の一員、腕利きの狙撃手だった鳩原未来が近界に密航し、行方をくらましてからの二宮隊の日常は、そうわかりやすく荒れることはなかった。二宮隊に限らず、A級B級ともなるとメンタルがそう簡単に不安定になるようではやっていけない。副作用(サイドエフェクト)持ちなど例外は居るが、皆一定の平静さとコミュニケーション能力を持っている。その中でも二宮隊の隊員は優秀で才能のある人間達だと、二宮は思っている。信じている。信じていた。信じていたものに裏切られて、二宮は、ボーダー本部二宮隊作戦室で椅子に腰掛け、コーヒーを啜りながら書類に目を通していた。いつも通り。
「あれ二宮さん、まだ帰んないんですか」
ひょこ、と犬飼澄晴が顔を覗かせた。いつのまにか部屋に入ってきていたらしい。
「お前もまだ帰ってなかったのか」
「いや〜ちょっと雑談が盛り上がっちゃって。カゲが面白くって、つい」
「そうか」
「二宮さん」
トリガーオフし、私服姿になった犬飼はロッカーから荷物を取り出し、抱え、立ったまま二宮の方を身体ごと向いた。二宮の目は書類を見ている。犬飼のことを一瞥もせず、書類を見たまま、なんだ、と言った。
「おれ鳩原ちゃんのこと抱いたことあるんですよ」
鳩原未来。ボーダーのトリガーを民間人に横流しし、数人の協力者と共に近界へ密航した元A級二宮隊狙撃手。18歳。女。好きなものは子供と梨としじみの味噌汁。家族構成、祖母と両親と弟。
今、二宮の手元にあるもの。かつて二宮隊で焼肉屋に行ったときに撮った、冴えない笑顔の鳩原の写真。ボーダーに保管・管理されている限りの鳩原の個人情報。鳩原が近界へ密航したこと、トリガーの民間人への横流しという重大な違反を犯したこと、それに伴う二宮隊への処分を言い渡した紙切れ一枚と、それに続く処分の詳細の書類。A級からB級への降格。
鳩原が消えてからほぼ毎日、二宮は鳩原のことを調べていた。防衛任務をはじめとした二宮隊隊長としての仕事を終えてから、作戦室に籠った。時には手掛かりになりそうな人間に会いに行ったりもした。
二宮隊の隊員たちは、他の隊と同様仲が良い。しかし隊長の二宮の性格もあるからか、基本的に皆ドライなところがある。辻などは女性が苦手だし、恋愛の話など滅多に出てこないし、ましてやセックスなど。そう二宮は思っていた。
気付くと犬飼が壁際で倒れていた。二宮の拳はひりひりと痛んだ。赤く擦り切れた犬飼の頬。二人とも生身だ。二宮だけがトリオン体でいたとしたら犬飼の首が吹き飛んでいただろうか。生身でいるところにあえて声をかけたのか。自分も換装を解いてまで。
「やっぱそうなりますよね」
「付き合ってるのか」
「まさか」
「殴られたくて来たのか?」
未だ床に這いつくばっている犬飼の腹に革靴の先を、ぐり、とめり込ませる。犬飼は抵抗しようとしない。白い、明る過ぎる無機質な照明に照らされた、澄んだ青い色の瞳の奥がどうしようもなく闇を湛えているのを、二宮は長くは直視出来なかった。
「……もういい。話を聞かせろ。座れ」
「はい」
ドリップパックにポットの湯を注ぎ手早く淹れた二人分のコーヒーをテーブルに置き、向かい合って席に着く。平静を装うためなのか、犬飼はいつも入れない砂糖とミルクを両方入れてこれ見よがしにかき混ぜている。
「おまえがそういうことに奔放な方なのは……知らなかったが、まあ想像はつく。辻は極端だが、俺も柔軟なコミュニケーションというのは得意な方じゃないからな。お前が隊にいて助かっている。頼りにしている」
「ありがとうございます」
犬飼がコーヒーを一口啜り、甘、と呟いた。
「だが同じ隊の中で関係をもつというのは」
「二宮さんはアセクシャルって知ってますか?」
コト、と小さな音を立てて、犬飼はコーヒーのカップを置いた。茶色い水面は泡を含みながら、ゆるゆると回り続けている。応えない二宮を差し置いて、犬飼は話す。
「アロマンティック・アセクシャル。アロマンティック、が恋愛しない、アセクシャルがセックスしないって意味です。LGBTはわかりますよね?レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダー。Qが付くときもあるけど、その場合はクィアのQ。性的にマイノリティのひとたち。アロマンティック・アセクシャルは、自分が恋愛やセックスをすることに意義を見出せない、恋愛やセックスがわからない、しない、できないひとのことを指します」
「……詳しくはないが、知ってはいる。本も多少だが読んだことがある」
「よかった。鳩原ちゃんがそれなんですよ」
「鳩原が」
鳩原が二宮隊から、ボーダーからいなくなる前は、犬飼とともに鳩原はコミュニケーションの要だった。今では隊で女性一人となってしまった氷見とも仲が良かったし、狙撃手仲間からも慕われていた。犬飼と比して、恋愛よりは友愛の人だとは思っていた。
「意外でした?」
「……いや、他人の嗜好に文句をつける気はないし、縛る気もない。そこはお前らの勝手だ」
「……嘘つきだな」
「何?」
「いえ、何でも」
「それで、……なんでお前と鳩原が、………」
「試されたんですよ」
二宮が沈黙を誤魔化す為にコーヒーに口をつけ、間髪をいれず犬飼は言った。それで二宮はカップから口を離すことが出来なくなった。薄い唇をまだ熱い液体が何度も撫でた。ろくに流し込むことも出来ないまま喉だけを動かして、カップを置いた。
「お試し。テストプレイ。体験版です。おれは。鳩原ちゃんの。ご購入には至らなかったみたいですけど。酷いと思いません?『犬飼くんなら慣れてそうだし、あたしと一回するくらい数のうちにも入らないでしょう?』って。おれのことなんだと思ってんだよ。……まあ実際その通りですよ。見たまんまの人間ですから。別にいいんですけど」
「付き合うつもりは無かったのか?お互いに?微塵も?」
「どうでしょうねえ。成り行きでそうなることもなくはないでしょうけど。まあ、おれ、好きなひといるし。鳩原ちゃんにもそう伝えてから、しましたし」
「そうなのか」
「あんたですよ」
ブウン、と、空調か、他の電化製品か、機材か、とにかく何かの音がして、がらんとした小綺麗な作戦室の中で、鳩原がこまめに掃除をしていた部屋の中で、鳩原は、犬飼は、辻は、氷見は、俺は。
二宮匡貴は目を見張り、犬飼澄晴はいつもと同じ顔で笑っている。手はゆるりと膝の上に置かれ、背筋は無理のない程度に伸びている。先程殴った頬が腫れ始めている。どうしてこんなときまでこいつはそうなんだ。
「二宮さんのことが好きです」
「……帰れ」
「まだ話終わってないです」
「帰れ!」
「鳩原ちゃんが好きなんですよね?」
怒鳴る二宮に負けないように、はっきりと犬飼は切り出した。二宮はもう目を覆って俯くしかなかった。心臓がどくどくと鼓動する音が聞こえた。
「バレバレですよ。居なくなってからは特にですけど。最初からだな。二宮隊が編成されてからずっと。鳩原未来のことばっかりだあんたは。まるでそれしか見えないみたいに」
「違う。俺は……」
俺は鳩原を近界遠征に連れて行きたかっただけだ。何としてでも。俺になら出来ると思っていた。鳩原になら出来ると思っていた。人が撃てなくても。あの狙撃の腕があれば。俺になら使いこなせると。目標を果たしてみせると。何処にだって行けるんだと証明してみせると。
夢は、脆くもはかなく崩れ去って、きらきらと宙に浮いていた。二宮は泣かなかった。泣く資格などないので泣かなかった。
「鳩原ちゃんに言いました。二宮さん多分、鳩原ちゃんのこと好きだと思うって」
なんて言ってた?とは聞けずに、犬飼の目も見れずに、顔を覆っていた手のひらを外して俯いている。
「笑ってましたよ」
これで話は終わりです。二宮さんは鳩原ちゃんのことを好きで、鳩原ちゃんとおれはセックスして、おれは二宮さんのことが好き。それで終わりです。二宮さんおれに興味ないから、ねえ、おれ、必死なんですよ。必死で、ずっと気を引こうと必死でした。今も諦めてないです。最低で最悪だ。最低で最悪だって思いました?鳩原ちゃんのこともおれのことも。……あんただって。いやいいんです。それはいい。あんたはそのまま生きてればいい。おれはそういう二宮さんが好きで、鳩原ちゃんは好きになれなかっただけ。もう殴る気力も無いですか?帰ります。おれ来週からも来ますから。これからも二宮隊でいますから。よろしくお願いします。大好きですよ、二宮さん。
「『良い娘は天国に行ける。悪い娘は何処にでも行ける』」
鳩原未来は犬飼澄晴と共に寝転ぶベッドの上でそう呟いた。事後の熱気も冷めてきて、二人して一本の清涼飲料水を交互に飲んで喉を潤していた。
「天国行きたかったなあ」
「何、もう行けないの確定してんの?……おれたちはともかくさ、鳩原ちゃんは天国行けるでしょ。人撃てないんだから。人殺しにならなくていいってことだよ。いいじゃん」
「二宮さんあたしのこと好きだって本当?」
「わかんないけど、おれの勘は外れないよ」
「ははは」
「なんで笑うの」
「あたし天国行きたかった。二宮さんのこと好きになって天国に行きたかった。でも行けないんだと思う。二宮さんのこと好きになれないんだと思う。犬飼くんのことだって好きになれないよ。ごめんね。ごめんね。あたし……」
「いいよ。痛いところとか無い?」
「無いよ。ありがとう。犬飼くんは優しいね。みんな優しい。二宮さんだって。みんな優しいのに、どうして、あたし………」
「鳩原ちゃん、大丈夫だよ。二宮さんについていけば、天国にだって地獄にだって、何処にだって行けるさ」
「……うん」
信じたかった。信じたかったけれど待てなかった。全部全部そうでそれでしかなかった。
あたし気付いちゃったの。子供染みたまま何処までも強い、強くなっていくあなたのこと信じていたけれど子供の強さは大人の保護下でしか十全に発揮されないってこと。あなたは大人の保護下でのびのびと強くいることを選んでいるんだってこと。あなたが何処にだって行けるんだとしてもあなたの下にいるあたしはそうとは限らないってこと。ねえ二宮さん。
人生は夢だらけ
疲れて家に帰ると加古望が女を連れ込んでいた。
顔も知らない少女の下着姿がまず目に飛び込んで来て、二宮は固まり、少女はきゃあ、と言うなり加古がいる部屋の奥へと駆けていった。「加古さん、二宮さんと同棲してるって本当だったんですか?てっきり冗談だと思ってました!」などと好き勝手お喋りをしているのが聞こえる。
同棲ではなくルームシェアだ。
ひょいと自室から顔だけ出して加古は言った。
「あら二宮くん。思ったより早かったわね。今日は遅くなるかもって聞いてたから期待しちゃった」
「犬飼から聞いたのか」
「そうよ?」
「……もう九時だぞ。帰さなくていいのか、そいつは」
「親には、今日は頼りになるボーダーの先輩のお姉さんのとこにお泊まりしますって言ってあるので、だいじょうぶです」
全く大丈夫ではなさそうなのは突っ込むべきところなのだろうが、とにかく疲れていてそれどころではない。
鳩原未来が近界に旅立ってから十数年が経った。あれから遠征には三度行った。三度とも鳩原には会えなかった。
そうこうしているうちに戦闘員としての限界がやってきて、二年前に二宮隊を解散した。鳩原を知っているのはもう辻新之助だけになっていた二宮隊。ほとんど鳩原未来を探すために活動を続けていた二宮隊。一人の女を探すために強くなり続けて、それでも太刀川隊には結局勝てず終いだった二宮隊。愛着もあったけれども、もうそろそろ後継に任せる頃合いだ。一応今は無所属の戦闘員としてボーダーに籍は残してあるが、ほとんど関連会社の会社員としての仕事の方が多くなってきている。鳩原未来の消息が掴めた、何か手がかりがあった場合は即座に報告してもらえるように上層部や風間隊には頼んであるし、もうやれることは無い。無いはずだ。
風呂に入る。夕飯を適当に済ます。加古の連れてきた少女は既に加古の部屋ですやすやと寝息をたてている。
歯磨きをして寝床に入ろうとしたときにまた加古が出てきて、言った。
「二宮くん。そろそろしてみる?」
「何をだよ」
「セックス」
「俺とお前が?ふざけるな」
「冗談よ。ただねえ、もう見てられないってみんな言ってるのよ。みんな優しいからあなたには言わないだけ。わかってる?わかってるわよね。わかっててあなたはそれなんだからどうしようもないのよね。進むしかないって、それしか知らないってあなたは言うでしょうけれど、あなたが一生懸命走ってるそこにあるのってルームランナーか何かじゃないのかしらって」
加古の胸ぐらを掴んだ。掴まれたまま加古は続けた。
「……思うのよ。鳩原ちゃんが弟くんを探しに行ったのと同じくらい無謀だって思うわ。私は……手を放して」
手を放した。歯をぎり、と鳴らした後「悪かった」と謝って「そうだな」と言った。
二宮隊を解散した頃から、実家から見合いの誘いが頻繁にくるようになった。それがうざったくなった二宮は、加古望との同居を始めた。親からの急かしも、何より周囲からの「心配」も、それだけでぱったりと息を潜めた。
加古望は生粋のレズビアン、しかもポリアモリー気質で、二宮は昔も今も鳩原未来のことしか頭にない。提案したのは加古だった。
「私も恋人とか結婚とかいうの、どうでもいい人たちに聞かれてばかりでうんざりしてたのよね。一緒に住めば都合のいい言い訳ができるじゃない。共犯関係になりましょうよ、ねえ?」
「二宮くん」
それぞれの寝室に入るとき、加古は言った。
「人生は夢だらけね。おやすみなさい」
「二宮さん、これ、今日中で三門東小学校まで届けてもらえますか?」
関連会社の方の同僚から渡されたA4封筒には今度開催される小学校での秋祭り関係の書類が入っている。
「郵送で送るって言ってたんだけど忘れてて、いつもなら事務員さんに頼むんですけどちょっと今忙しいみたいで……」
部下の目線の先を振り向くと受話器を片手にPCや書類と格闘している事務員の女性が見えた。なるほど無理そうだ。
「わかりました」
どうということもない。しかしすかさず、上司がひょこ、と書類の山から顔だけ出して声をかけてくる。
「あー二宮くん!ついでだけど弁当も取りに行ってきてくれないかな?俺と斎藤くんと田中くんと松木さんと宮園さんの分、五つね!いつものお弁当屋さん、わかる?」
「話では聞いてますけど、行ったことは無いですね」
「小学校の前の道曲がって、えーとね」
簡単な地図を付箋紙で渡される。弁当屋で弁当を買うことはあまり無い。一度か二度誘いに乗って注文したことはあったが、そのときは事務員の女性がいつも通り取りに行ってくれて、お金を払って受け取るだけだった。パシリか。少し虚しくなったが、まあついでだしいいか、と思い直す。
現在時刻十時十分。仕事もそれほど忙しくはないし、たまにはお遣いくらい行ってもいいだろう。
社用の軽自動車で真っ直ぐ小学校に向かう。木枯らしと街路樹の赤い実が冬を知らせている。
「こんにちは、お世話になっております、〇〇〇〇の二宮と申します。秋祭りの書類を届けに参りました」
「こんにちは〜、ああボーダーさんとこのですよね!お世話になります〜」
髪の短い、ぱっと見男か女かわからない中性的な眼鏡の事務員に封筒を渡す。
「はい確認しました。あっすみません、ボーダー本部って近いうち行かれたりしますか?」
「そうですね、仕事上よく行きますが」
「じゃあこれもお願いしてよろしいですか?急ぎではないので〜」
薄緑色のファイルを渡された。沢村さんあたりに渡しておけばいいだろう。しかしこれくらいPDFで渡して済むものではないのか。電子ファイル化、IT技術が進んだといっても端々ではこの程度だ。二宮はため息をつきながら、小学校の外来用玄関を通り抜けた。短い中休みの時間を使って、運動場で子供たちが遊んでいる。ボールがこっちに飛んできて、二宮は持ち前の運動神経で思わずキャッチしてしまった。すかさず男児がこちらに駆け寄ってくる。
「あ、ありがとうございます」
男児と目が合う。ぼさぼさした髪の毛、そばかすののったぼんやりした顔が誰かと似ている気がしたが、他人の空似かと思い直した。
「……気をつけてな」
「みどりくーん!はやく!」
一緒に遊んでいた女児が大きく手を振っている。みどりと呼ばれた少年は気恥ずかしそうに大声で返す。
「みどりはやめろって!苗字呼び!」
「どっちでもいいじゃん」
あはは、と騒がしい中に、はとはら、と聞こえた気がして、病気もここまできたかと頭を抱える思いがした。
「○○○○様ですね、三千百二十円です」
小学校を出て、メモを見ながら車で移動し、弁当屋に辿り着く。封筒から五千円札を取り出し支払った後、弁当を受け取った。
「鳩原さーん、さっき電話あった原田様の分できてる?」
ん?
「あっもう出来てます!大丈夫です!」
レジの店員の顔をよく見てみる。眼鏡と三角巾でパッと見はわからなかったが、似ている気がする。声も。
「五千円お預かりします。……お釣り千八百八十円とレシートです」
「待て」
ビク、と肩をすくめて怯える店員。逃すものか。お釣りを渡した手がほぼそのままの体勢で固まった。
「鳩原未来だな?」
ラインだけ交換をして、仕事終わったら電話しますとのことだった。
元々子供好きだったんですよね。鳩原未来は電話口で初めてその詳細を話し始めた。子供が好きなのは知っていた。弟に執着するのも、いや、弟のことがあるからなのか、絵馬など年下の隊員にも優しく世話好きだった。
子供が好きなのに性行為が出来なくて、恋愛をすることも出来なくて、誰のことも恋愛としては好きになれなくて、自己矛盾に、というかこの世界の仕組みに悩んだりしたこともあっただろうに、二宮はその葛藤も懊悩も知らずじまいで、鳩原未来に何をすることも出来ずに時間は経った。十年も経った。
小学校に近い立地で都合がいい、ということで近所の弁当屋に就職を決めたのはつい最近だそうだ。
「近界で産んだんです。あっちでは非配偶者体外受精も代理出産も合法なので。出生届はこっちで出しました。まあ色々誤魔化すのは……大変でしたけど」
子供は人工授精で、代理出産なのでお腹を痛めては産んでいない。それでもれっきとした鳩原未来のこどもだそうだ。父親は不明で、不明であることを望んだ、と。代理母とは今も連絡を取り合って、仲良くしているらしい。
それから色々あった。小学校の秋祭りも無事に終わって、その中で何度か鳩原の息子とニアミスして、鳩原と会ったことを話した途端同情的な目つきになった加古の皮肉だか冷笑だかなんだかわからない話を聞き、二宮と違う広告系の会社にボーダーのコネで入った辻と同じ会社で受付嬢をしている氷見がなんだか微妙な仲になっているらしいのを手出しするかしまいか悩んだ挙句にやめておいた。特に何もなかったといえばなかった。それでもそれなりの時間が経っていた。
遊園地に行きませんかと長らく不動だったラインの通知が明滅して、二宮は喜ぶより先に驚いた。何事だと思った。
日時だけ一方的に伝えられてその通りに遊園地の最寄駅に着くとそこには鳩原と、知らない成人女性と、知らない子供がいた。小学校低学年くらいの男児。
「ほらみどり、自己紹介」
「鳩原翠です。七歳です」
「ラインで話してた、あたしの息子です。みどり、こちら二宮さん。お母さんの昔の……お仕事でお世話になった人だよ」
「二宮匡貴です」
ご丁寧に帽子を取ってお辞儀をしてくれたので、こちらもしっかりとお辞儀をする。続いて成人女性の方が口を開く。
「未来ちゃんの友人の西崎みちるです」
「みどりのお母さん……ってあたしもお母さんだけど。代理母になってくれた人です。今でもお付き合いしていて」
「どうも」
ふふふ、と鳩原は一しきり笑った後、行きましょうか、と二宮たちを先導した。
「カラスって七歳くらいの知能があるんだって」
被っていたニューヨークヤンキースのロゴが入った野球帽を脱いでぱたぱた仰ぎながら、みどりは言った。
鳩原未来が絶叫マシン好きなことを、二宮は知り合って十数年経った今はじめて知った。子供を置いて何度も友人の西崎とフリーフォールだのジェットコースターだのに乗っていて、それをベンチで眺めながら二宮と鳩原の子供のみどりは休憩していた。二宮もみどりもフリーフォールに一度は乗ったが、もういい、とみどりは言い、二宮も同意見だった。
「俺とあんまり変わんないじゃんね。カラスがそんだけ頭いいならさ、鳩ってどうなんだろ。おじさん知ってる?」
「知らない」
「そっかあ」
「おじさんはやめろ。自己紹介しただろ」
「二宮さん」
「よし」
少しの沈黙が流れて、みどりが貧乏ゆすりをし始めた頃、二宮はまた口を開いた。
「特筆するところが無い……あー、カラスは他の鳥と比べて頭が良いからそうやって言われるけど、他の鳥は何も書かれてないなら、所詮その程度ってことなんじゃないか」
「じゃあ俺カラスよりばかなのか」
あはは、と笑う顔が鳩原に、母親に似ていて、二宮の胸は、ぐ、と苦しくなった。
「そうとは言ってないだろ」
キャーッ、アハハ、とみどりの母親たちの声が聞こえる。
「はとはらみらい」
みどりはそう虚空に言い放ち、はあ、と息を吐いた。季節は冬で、吐いた息は白くなった。
「きれいな名前だよね。だから好きになったの?」
「は……」
二宮は何か言おうとして、言おうとしたけれど、何も言えなかった。
「好きなんだよね?お母さんのこと。みちるさんのことじゃないよ」
そうだ。と七歳相手に言ってしまうのもどうなんだろう。しかし事実は事実なので言ってしまうほかないだろう。
「……名前がきれいだからじゃないがな」
「でもきれいだよね」
「そうだな」
「お母さんもおじさんのこと好きだと思うんだけどな。じゃなきゃこんなとこ誘わないと思うし」
「お前お母さんから何も聞いてないのか?」
「何が?」
母親の性志向のこと。と言おうと思ったが、まだこいつは七歳だと思い直した。知らなくても無理は無いし、明かすタイミングというのはそれなりに大事なものだろう。
「……みどり。俺はお前のお母さんの……そういうのじゃない。彼氏とか、配偶者候補とか、そういうのじゃないんだ。ただの昔の知り合いだ」
「なんで昔の知り合いを遊園地に誘うの?」
「それは……わからない」
「ふーん、変なの」
それからは適当にそんなに気まずくもなく、風船を配る着ぐるみやアトラクションに並ぶ行列の長さ、泣いている赤子など適当に見えるものに反応するみどりに相槌を打って、鳩原たちが戻ってくるのを待った。
「いやーお待たせお待たせ。楽しかったー!」
いかにもはしゃぎすぎて疲れたという顔をして鳩原とその友人は二宮たちのもとに戻ってきた。ペットボトルの茶を差し出すと鳩原はありがとうございます、と言って手早く蓋を開けてぐいと飲み、ぷはー、と息をつく。
「何回乗ったんだ」
「いやでも三回くらいですよ?列そこそこ長かったんで!」
「普通子供待たせて乗るか?逆だろそこは」
「あははーごめんねみどり。みどりは何か乗りたいの無い?食べたいものとか」
「アイスは買って食ったぞ」
二宮はチョコレート、みどりはバニラとストロベリーのダブルを頼んで、もうコーンまで綺麗に食べ終わったところだった。
「うわ〜ありがとうございます〜お礼言った?みどり」
「言ったよ。うーん、じゃああのコーヒーカップのやつと、観覧車かなあ」
「コーヒーカップ!いいね!お母さん張り切って回しちゃうぞ〜!」
「お母さんが回すと速すぎて気持ち悪くなるから、二宮さんと乗る」
「ええ〜っ!あはは、だそうなんで、二宮さん、よろしくお願いします」
みどりの宣言通り、二宮とみどりは同じソーサーに乗った。違うカップに乗った鳩原は友人とまたきゃあきゃあ言いながら高速でハンドルを回し、二宮はみどりが酔わないように節度を持った速さで回した。それなりにみどりははしゃいで、それなりに笑っていた。
観覧車。今度は公平にグッパーで分かれた結果、二宮と鳩原が一緒に乗ることになった。
「はー、楽しかった。今日はありがとうございました。二宮さん」
「礼を言われるほどのことじゃない」
「みどり不思議がってませんでした?なんでこの人僕と一緒に遊んでくれるんだろ〜って」
「お前の交友関係は謎ばかりだろうからな。あいつも慣れてるんだろう」
「あはは、そっか……普通じゃないもんなあ色々。お父さんもいないしねえ」
「……景色、見なくていいのか」
「あ、本当だ。すごいすごい、三門の街全部見えますねえ」
三門市。二宮たちがかつて守ってきた、今は二宮たちがいないボーダーが守り続けている、尊い都市だ。
景色を見ている鳩原の横顔は十年経ったとは思えないほど昔と変わっていない。息子といるときはやたら元気に振る舞っていたが、二人きりになると昔と変わらない顔があって、二宮は安心した。少し安心したところで、安心しきれないところに足を踏み入れることにした。
「どうして俺を誘ったんだ?」
「二宮さんにお父さんの代わりになってもらおうと思って」
「冗談はやめろ」
「ごめんなさい、冗談です」
真顔で冗談です、と言う鳩原に二宮はため息をついて、窓際に頬杖をついた。しばし沈黙が流れる。
「弟、見つかったんです」
は、と二宮は息を吸って、鳩原の顔を見た。さっきと何も変わらない、少しだけ申し訳なさそうな、どこか遠くを見ているような目つきをしている。ほんの少し気まずくなって、二宮は体勢を立て直す。
「本当か?」
「はい。……もう、亡くなってましたけど。あっちでの、近界での戦火に巻き込まれて」
「……そうか」
「でもよかったなあって思ってます。居ない弟を永遠に探さずに済んで。……まあそれもそれでいいかもしれないですけど」
「いいわけないだろ」
「そうですかねえ。生きがいがあるっていいことですよ。手段の目的化って言うんですか?別に悪いことじゃないと思うけどな。楽しかったでしょ?」
「……お前、」
「楽しかったでしょ?あたしの弟を探しに二宮隊で遠征に行く、遠征に行くためにランク戦でA級一位を獲るって決めて、みんなでA級一位目指して頑張って」
鳩原は目を見張り、両の拳を握りしめ、下唇を噛み締めて、そして続ける。
「あたしがいなくなってからも貴方のことだからどうせ遠征に行く目標もA級一位になる目標も揺らがなかったんでしょう。あたしを探しに行くっていう、目的がちょっと変わっただけ。努力を続けてそれが報われる世界を必死に信じ続けて、楽だったでしょ、楽しかったでしょ?あたしだって楽しかった。楽しかったけど、でも、でも、何も変わらなかった……!」
何も変わらなかった。そう、それだけ。二宮と鳩原の間にあるのはそれだけの事実で、その事実だけが永遠に二人の間には横たわるに違いないのだった。革命は起こらなかった。組織の仕組みの中で〈足掻けるだけ〉足掻いた、尊い、唾棄すべき、僕らの徒花。
「復讐です。これは復讐なんです。二宮さん。あたしずっとずっとずっと貴方のこと憎かった、大嫌いだった、大嫌いだった……。ずっとあたしのこと見ててください。そこで何も出来ずに見ててください。あたしと子供も作れずに結婚も出来ずにあたしに何の手も差し伸べることのできない事実を悔いて悔やんで泣いて暮らしてください。お願いします。あたしはそれを見ながら、思い浮かべながら、笑って暮らしていきたいんです。お願いします……」
観覧車はあっという間に一周して、閉園時間という地上のありきたりな規律に従ってやがて回るのをやめた。
「ずっと回ってたらいいのに」
帰りの電車の中で、みどりは言う。
「ずっと回ってたらいいのに。観覧車もメリーゴーランドも、コーヒーカップも、誰もいなくてもずっと回ってたらいいのに。楽しい時間はもう終わりだよって言われてるみたいで、さみしいよ、こんなの」
「楽しい時間には終わりがあるんだよ。終わりがあるからまた始められるの」
鳩原未来はみどりの頭を愛おしそうに撫でながら、あなたはあたしの未来だよ、と心の中で呟いた。
「あ、二宮さんだ」
「誰?お父さん?」
「ううん、お母さんの友達」
放課後、みどりは級友たちとサッカーをして遊んでいる。それを木陰から静かに見守る影がある。若干不審者に見えなくもないが、これでもれっきとした学校関係者である。
「二宮さーん!」
たたた、と二宮のもとに駆け寄ってみどりは問う。
「何してんの?」
「別に。仕事で近くまで来ただけだ」
「ふーん。二宮さんはサッカーしない?」
「しない。まだ仕事が残ってる」
「えー、つまんないの」
「……みどり」
「何?」
「元気か?」
「元気じゃなかったらサッカーなんてしてないよ」
「それはそうだが」
「お母さんに告白した?」
「してない。しない」
「えー」
「……じゃあな」
「うん」
じゃあね、と手を振られて、二宮も手を振り返した。
鳩原の子供。自分とは何の関係もない、血の繋がりなんてもちろん無い、鳩原未来の子供。今のところそこそこ懐かれてはいるけれど、母親からの心象は最悪だ。
憎まれている。恨まれている。嫌われている。
犬飼にしてもだけれど、どうしてみんな自分をあんな目で見るのだろう。笑っていても、目の奥は暗く冷たい。自分が悪いのかもしれない。自分が期待をもたせすぎているのかもしれない。考えても仕方がない。
「お帰りなさい二宮くん」
自宅の玄関ドアを開けると、そこには当たり前のように加古しかいなかった。
「今日は女は連れ込んでないのか」
「嫌ね、毎日会うほど暇じゃないわ。私も、私の好きな女の子たちも」
ダイニングテーブルでコーヒーとスイーツを嗜んでいたらしい。あなたの分は無いわよ、とこともなげに言われて、要らない、と返す。
「……お前は楽しそうでいいな」
「ええ、楽しいわよ!」
鼻歌をうたいながら、加古は椅子から立ってくるりと回り、踊ってみせた。
「楽しい時間はいつか終わる」
「終わるからまた始められるのよ」
「終わらない。終わらないんだ」
棒のように突っ立っている。片想いは終わらない。自分で諦めて踏ん切りをつける以外どうしようもない。諦められない。踏ん切りなんて一生つけられないだろう。泣いて暮らせと言われた。その通りにしようではないか。
「そんなに鳩原未来が好き?」
「……そうだな。好きだ」
二宮は微かに笑った。嘲笑でも苦笑でもなく、安堵したような笑みだった。
加古はきょとんとした顔をして、それから二宮の胸を叩いて、笑った。
「いつもみたいにわからない、って言うのかと思ってたわ」
ほんと、二宮くんって面白いのね。

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