青春の終わり、生活

「水上せんぱーい」
日曜日、草刈機で自宅周辺の雑草を刈っていると、懐かしい呼び方で名を呼ぶ声が聞こえた。隠岐孝二だった。赤子を抱いている隠岐の後ろには小さな娘と手を繋いだ奥さん、と思われる女性が立っている。
「おう、久しぶりやな」
「こんにちは。ほら莉子もご挨拶して〜」
まだ二歳か三歳くらいだろうか、立っているのもやっとといった感じの少女が水上に挨拶をする。こんにちは、と小さな声ではあるがちゃんとお辞儀までしてくれて、まあ合格点だろう。
こんにちは、と水上は返事をして、隠岐の方に早々向き直った。子供は得意ではない。
「大きくなったなあ。もう二人目?」
「きょうだい作るなら早い方がええかなって」
「まあボーダー辞めたんならそのへんも自由やろなあ」
「ははは。やっぱ寂しいですか水上先輩も」
「うるさ。立ち話もなんや、うち寄っていけよ」
「は〜い」
隠岐孝二がボーダーを辞めたのは隠岐が大学を卒業してすぐのことだ。学生結婚をした隠岐はしばらくはB級ソロ隊員として防衛任務などをこなしていたが、卒業を契機に辞めます、とある日言った。
生駒隊が無いとやっぱり駄目ですわおれ、生駒隊じゃないと。
俺も同じ気持ちやわ、とは言えずに、水上は隠岐を見送った。
間も無く水上敏志は水上隊を発足した。
隠岐と同様、ソロでふらついていた南沢海をメンバーに引き入れ、後は新人の有望株の狙撃手と万能手を勧誘した。オペレーターはもちろん細井真織だ。
「水上隊、どうですか調子」
「A級六位まではなんとか行った」
「A級!?」
「茶こぼすなよ」
客用の湯呑みの水面が大きく揺れて、ぴちゃ、と少しだけ縁側の床にこぼれた。あらら、と言いながら隠岐はそこを袖で拭った。隠岐の妻と子は部屋の奥の方でくずし将棋をして遊んでいる。
「生駒隊のときって結局何位まで行ったんでしたっけ」
「B級二位やな」
「あっさり越えてしまわれて」
「あっさりなあ、そうでもないで」
「……しかしまあ、まさか水上先輩が」
「隊を作るとは?」
「いやいや、まあそれもですけど」
しげしげと隠岐は水上家の居間の中を眺めた。開け放してある庭も眺めた。少し古いがしっかりしている平屋の家は、水上家代々伝わるものではない。水上敏志が自分の代になって買ったものだ。ここは大阪でもなければ関西周辺でもない。某県三門市だ。そう水上敏志は、28歳という若さにして、三門に家を買ったのである。
「いい家ですねえ」
「せやろ」
「俺も家買おうかなあ。でもどうせなら新築がええしなあ」
「俺は自分ひとりしか住めへんからこれくらいでええねん。隠岐は家族がおんねんから頑張って新築買ったり」
「わはは。頑張りますわ。……あららすんません先輩、孝文のおむつ替えな」
「ええで別に〜ここで替えても」
「先輩やってみます?」
「えっ」
おむつ替えなんてしたことがない。ないが断る理由も無かったので水上は隠岐の子供のおむつを替えた。ゆるいうんちのついた小さなお尻をおしりふきで拭いて、あたらしいおむつに付け替えた。孝文はおとなしく、知らない大人である水上をじっと見るでもなく父親の方をずっと見ていた。
「敏志おじさんにきれいきれいしてもらってよかったねえ。あーすっきりしたすっきりした、よかったねえ」
ありがとうございます、と隠岐の妻からも礼を言われる。
「おじさんか〜まあおじさんやなあ」
「お兄ちゃんの方がよかったです?」
「いやおじさんやろこの子らにとっては。おじさんでええよ」
「さとしおじさん」
莉子がつたない発音で言った。みんなして笑った。

後日隠岐から「先日はありがとうございました」と連絡があり、ボーダーの水上隊作戦室でその電話を取った。
「そういえばイコさん今何してるか知ってます?」
「年賀状は毎年来るけどな」
居合道の道着の袴を着た生駒達人本人が刀を構えている、カメラ目線の写真がどんと載った年賀状。かっこいいのにカメラ目線なところが抜けていて、新年にちょうどよいおかしみがある。
「お見合いの相手といい感じらしいですよ」
「なんでお前が知ってんねん」
「恋愛相談されるんですよ。イケメンはなんでも知っとるからな言うて。イケメンちゃいますよ〜て言ってるんですけどね」
「なるほどな」
「……ええんですか?」
「何が」
「水上先輩イコさんのこと好きでしょ」
「は?」
「え?」
「いや、は?いうか、付き合ってたけどな」
「は?」
「は?ちゃうねん。知らんかったんかい」
「初耳ですわ〜……え、えー、じゃあ」
「別れた。イコさんが跡継ぐて決まったときにな」
「なんですかそれえ!」
そう、生駒達人が実家の道場を継ぐと決まったときに、水上敏志の方から別れを告げた。それから水上敏志の生活は一変したのだった。
時系列。生駒達人が大学卒業。ボーダーを辞め、実家に帰り跡を継ぐことに決める。それに伴い生駒隊解散。水上、隠岐、南沢、細井、B級ソロで暫く活動。隠岐が大学在学中に結婚。卒業後、ボーダーを辞め、唐沢さんからのつてで三門に就職を決める。水上隊結成。南沢と細井加入。じわじわと長い時間をかけ、A級六位まで順位を上げる。水上敏志、三門に家を買う。以上。
「上層部にな」
来いって言われとんねん。何年か前から。役職はまだ決まってないんやけど、オペレーションの統括部長みたいなのが一人欲しいってな。まあウチの隊も行けるとこまでは行ったし、そろそろ頃合いかなとは思っとるんやけど。
水上がべらべらと説明する間、隠岐はそれを黙って聞いていた。聞いて、それから所感を述べた。
「水上先輩の人生、イコさんに振り回されてますね」
「お前かてそうやろ」
「いやあ俺は莉穂子さんに振り回されてるんで」
「そういやお前んとこ、姉さん女房やったか……」
「でも三門に家まで買うって凄いですやんか。もう俺は大阪には帰らん!三門に骨を埋める覚悟や!みたいな?」
「実家にはたまに帰っとる。まあ俺が家買うたから両親は定年後はこっち住むか?みたいな話にはなっとるけども」
「やっぱり三門に骨を埋め……」
「じゃかあしい」
やけくそになっているところは確かにあるかもしれない。もう後戻りは出来ないのだ、と自分に言い聞かせたいのかもしれない。イコさん、イコさんイコさんイコさん。生駒達人。
あの人が人生の全てになるとあのときは思い込んでいた。まさかあの人がいない人生の方が圧倒的に長くなるなんて思いもしなかった。

回想。
水上敏志の住まう部屋にいつも通り乗り込んでいつも通り水上はベッドに座り生駒はベッドを背もたれにして座っている。
「水上、やっぱ俺、道場継ごうと思うねん」
「そうですか」
「せやからボーダーは辞める」
「……そうですか」
生駒達人の実家は居合道の道場をしている。それは知っていた。ボーダーは期限付きの遊び場のようなものだった。わかっていた。
「水上は、大阪戻る気無いんか?」
「おれはずっとボーダーに居ますよ。居るつもりです」
「そうか」
「別れ話ですか?」
「は?」
世にも珍しい生駒の「は?」を聞いて、水上は少し笑った。なにわろとんねんとも言わず、生駒は繰り返す。
「は?」
「ついていきませんよ」
それが答えだった。
「ついてきてくれって言うつもりだったんでしょ。ついていきません。生駒の家には嫁ぎません。これでええですか」
「嫁ぐて、お前男やろ」
「同じでしょ」
「ついてきてくれよ」
生駒は一度立ち上がって水上の側に座り直した。二人分の体重がかかったシングルベッドが少し軋んだ。
「嫌です」
「水上」
「生駒隊も解散するんですから隊長命令も何も無いでしょ。もうあんたの優しいばっかりの判断についていくのもやめや。よかったよかった」
水上は生駒の顔を見ない。
「水上」
「なんですか」
「泣くなや」
「泣いてませんけど」
泣いていた。水上は静かに静かに泣いて、目を覆った。目尻と目頭を交互に拭って必死に平気な顔を取り繕おうとしたが駄目だった。
「自分から別れ切り出しといて変な奴やな。本当……アホや、お前」
「イコさん」
「何?」
「泣かんとってくださいよ」
「泣いてへんて」
泣いていた。二人とも泣いて泣いてもうグダグダだった。
恋人同士だったので最後のセックスはした。恋人同士だったので。別れるの嫌やなあ。嫌ですねえ。今からでも無かったことにならへん?なりませんねえ。あーあ。
回想終わり。
あーあ、と思う。好きだった。今でも好きだ。多分向こうだってそうで、じゃあどうして別れるのかって、勇気が無いからだ。あの人の人生についていく勇気が。あの人のために水上敏志でなくなる勇気が。名字を変えるとかそんなんではないけれど、今までの水上敏志とは違う水上敏志になるのだと思う。それは嫌だと思った。
「先輩の人生ですから、好きにしたらええと思いますよ」
「おう」
隠岐はそう言って、電話を切った。また遊びにきますとも言っていた。隠岐は三門に残る。きっと大阪に戻ってもたまには会いに来るだろう。じゃあ生駒は。生駒は京都だ。会おうと思えば会える。会えるのかもしれない。けどきっと会わない。
日常は続く。家の前の雑草を刈るように、必要最低限のものだけ残して、あとは捨てて、日常は続く。大切だったものも手放して。うっかりではなく、大切だった、大切だったと抱きしめて、泣いて、そして手放したもの。
みんなあたりまえにかわっていって、かわらないものなんてひとつもないのかもしれないとおもった。それはおそろしいことだとおもった。けれどすがすがしいことだともおもった。
水上敏志は早起きをする。毎日六時半には起きて、白米と味噌汁の朝食を食べる。休みの日は庭の手入れや家事をして過ごす。イコさんは今頃何してんのかな。居合の指導頑張ってんのかな。あの人教えるの出来んのかな?感覚派過ぎて無理やろ。そんなことをたまに考える。きっと生駒達人も水上敏志のことをこうやってたまに思い出して笑うのだ。年賀状を出し合うだけ出し合って、いずれ切れていくような繋がり。それでいいと思う。美しい思い出は永遠に残る。
然様なら。永遠のようで一瞬だった、僕らの青春よ。

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