「嵐山准くん入りまーす」
「ボーダー広報部の嵐山准です。よろしくお願いします」
「初めまして、佐藤です。よろしくお願いします」
司会役の若い溌剌とした雰囲気の女性が通る声で挨拶をしてくれる。下心というよりはただワクワクとした好奇心だけを表情に出しながら。
今日は三門市の一角、九〇年代に市と統合した村に伝わる大きな祭りで、県外からも人が来るということで市の有名人代表としてステージに嵐山准は駆り出されたのだった。時枝や佐鳥、木虎は後で差し入れを持って来てくれるらしい。トークショーの後の嵐山隊VS近界民(モールモッド)ヒーローショーで嵐山以外の隊員を演じるのは地元青年団の若い衆たちだ。希望者が多かったらしく、何故か嵐山隊には存在しない孤月アタッカーが追加で一人いる構成になっている。
おおかた太刀川慶か迅悠一のファンだろう。二人の顔を思い出して、次に一昨日迅が言っていた事も思い出したが、今必要な思考ではないな、とすぐ思い直して頭の中から消した。
「うわー、うわー、嵐山准だあ。凄いな本物?本物だよね?」
「そんな大したものじゃないです。ただ街の安全のために出来る事をやっているだけですから」
「ふふふ、そんなこと言って〜凄く怖い怪物が来ても倒してくれるんでしょ?私は三門からちょっと離れたところに住んでるから、ごめんなさい、正直よく知らないんだけど」
「近界民(ネイバー)、ですね」
「そうそう、ネイバーだ、ネイバー。まああんまり話すとネタが無くなるか。今日はよろしくお願いしますね!」
「はい!」
笑顔なら誰にも負けない。それくらいの自負が嵐山にはある。
最近テレビやラジオのオファーがとみに増えてきたのもあり、芸能事務所に所属する運びになった。もちろん嵐山の芸能活動における責任は界境防衛機関ボーダーがとる。しかし嵐山准というキャラクターのブランディング、プロデュース辺りになってくるとそこはもちろんプロに任せた方がいい。そういうことだ。根付さんも気合が入っている。
期待に応えなければいけない。そのことが今は第二。第一に来るのは言うまでもなく家族だ。
嵐山准は愚かではない。だからまるでフィクションにおける約束事のように、ヒーローショーの最中に本物のモールモッドが現れて、近辺で防衛任務中だった太刀川隊が大した間も置かずに到着して、太刀川と出水が二体いるそれをそれぞれ一体ずつ撃破しても、市民や外から訪ねて来た民間人の避難誘導を率先して行うなどやるべきことを完璧にやった。完璧にやったので死人は出ず、怪我人は少々いたがどれも軽傷だ。泣いている子供たちを一通りあやした後、モールモッドの死体の上に佇んでいる太刀川慶の姿を見た。自分の恋人を寝取った男。
「おう嵐山。誘導助かったわ」
「太刀川隊は攻撃が派手ですからね。速やかに避難させないと民間人が被弾する恐れがあるので」
「あー?そりゃ出水のほうだろ?つーかアレだな、お前も言うようになったな」
「あなたと何度も話せば自然とそうなっちゃいますよ」
「ははは」
出水が太刀川の方へ駆け寄り、ぺこぺこと嵐山に頭を下げながら太刀川を引き摺りつつ去ってゆくのを笑顔で見届ける。笑顔は得意だ。笑顔なら誰にも負けない。笑顔なら。
祭りは今日が初日だ。始まってしまったからには簡単に中止することも出来ない。周辺住民は「襲撃慣れ」してしまっており、流石に今日のところはステージプログラムは中止でも、明日からは何事もなかったかのように再開するだろうなあ、くらいに皆考えている。ボーダーも三門市も、それくらい信用されているし、信頼されていないということだ。
タクシーが渋滞に引っ掛かったらしい他の嵐山隊の隊員ーーー時枝と佐鳥、そして木虎は、嵐山が本部に戻ってからステージ裏で渡す予定だった差し入れの和菓子を一緒に食べましょうと言って開けてくれた。綾辻の淹れた緑茶とともに食べるどら焼きは心が休まる味がする。
「久々に避難区域外だったな〜。お祭りの日になんて、タイミング悪いでやんの」
「またラッドでもばら撒かれたりしてないでしょうか?そうだったらまたあの地道な捜索作業を……」
「いや、その可能性はまだ低いんじゃないかな。本当に久しぶりの区域外だったし。ですよね嵐山さん」
「そうだな、木虎の言う通りその可能性もあるがまだ確定は出来ない。上層部のほうで会議にはなっているらしいが、俺達が口を出せることじゃないからな。通達を待とう」
「……そうですね。了解です」
時枝も、佐鳥も木虎も、自慢の優秀な隊員たちだ。ボーダー屈指のチームワークと木虎や佐鳥のトリッキーな戦闘スタイル、時枝の的確で心強いサポート、嵐山の肉体の頑強さ、単純な「強さ」も存分に生かしランク戦を戦い抜いた結果、自分が隊長を務める嵐山隊は、広報部隊にしてA級五位という位置にいる。それは充分に誇れることだ。誇れることであるはずだ。
太刀川慶は二本の刀を自由自在に使いこなすA級一位の隊、太刀川隊の隊長だ。嵐山隊と比べて一人少ない構成ーーーといっても、親のコネで入隊した唯我などはほぼ戦力にならず、実質二人のようなものだが。合成弾を操る、トリオン量と技術を兼ね備えた出水と組めば、それだけで他のあらゆる隊が敵わなくなってしまう。恐ろしいほどの強さだということであり、そんな化物、人間の形をしたもの、意思疎通ができる生き物を化物なんて呼びたくはないと嵐山は思うが、それでも化物としか形容できないものだということだ。
太刀川慶という男。
破天荒というにはそれほどの芯も意志の強さも真っ直ぐには見せてはくれない。飄々と誰もが予想をつかない動きをする。何も考えていないようでいて相手の二手三手先を読んだような動きをする。本当に読んでいるのかなんて、本人に聞いてもしらばっくれるだけだろう。戦闘スタイルも日常生活も似たようなもので、二面性なんてものはかけらも無い。戦いのために生きて死ぬ人間だ。きっと。それは神や鬼というよりただの自然物、現象、その名の通り、川に近い。刀そのもの。川そのもの。そんなふうにして生きている、生きているのだ。恐ろしいことに。そんなものに何を問えばいいのだろう。何を責め立てられるだろう。何を嘆き悲しみ呪えばいいのだろう。あの男に対して俺ができるのは一層、祈ることだけだ。
浮気をされた。
正確には恋人が襲われた。嵐山の襲われた恋人の名前は迅悠一といい、迅を襲った悪者の名前は太刀川慶という。
はじめはよかった。なんて言ったら恋人には殴られるだろう。しかし被害者でいればいいシチュエーションほど楽なものも無い。ただされたことを嘆き悲しみ、早めに忘れてしまえばいいだけだ。少しの呪わしい気持ちは残して。
そう思ったので、朝の爽やかな空気の中、嵐山は迅に、忘れろ、と言った。朝は忘れるのに最適な時間だ。どんなに恐ろしい悪夢も朧げになってしまうなんとも愛おしい時間だ。だから忘れろと言い、背中を軽く叩いた。忘れよう。歩こう。歩かないと家に帰れないから。
またあるときの散歩のとき、迅は嵐山に、太刀川さんとこ行くよ、と言った。抱かれに行くよ、といった。歩けなくなった。タイミングよくコロが催したので立ち止まった。気持ちを切り替えるのに中型犬の排泄はちょうどよかった。くだらない。些細なこと。匂いはするけれどそんなもの。そんなもの。行こうか、と言った。コロのうんちの量はいつもより多かった。喜ばしいことだと思った。
「コロ、こっちだぞ、そっちは玉狛だ。そう、迅がいる方の。迅のとこ行くか?」
夜のうちに全ては洗い流されて、洗い流されているはずで、洗い流されてなどいないと言いに来たのか恋人は嵐山の行く先で嵐山の方を向かずに川を眺めて佇んでいた。
「おはよう」
「おはよう、迅。……今日は来れないって」
「予定が変わったんだよ。ああ、いや、……未来が」
「そうなのか。じゃあ一緒にするか?散歩」
「うん」
青々と生い茂る草っ原の向こうで、清浄な川が勢いよく流れている。流されてしまったらひとたまりもないだろうな。地形を見るとそこでの戦闘について考えるようになったのはいつからだろう。川の中で斬り合った後輩たちのことを思い出す。俺は銃トリガーがメインだから、あんな芸当は出来ないだろうな。曲芸じみたような戦闘まで出来る凄い才能が揃っている。俺も気張らないといけない。止まっている場合ではない。死にたくなっているような場合では。
「嵐山」
「ん?なんだ、迅」
いつもの通り顔を覗き込んでみる。疲れた顔がデフォルトの表情になってしまっている迅は、交際を始めてからでさえ、あまり俺の方を見ようとしなかった。正対しようとは決してしない。戦闘のとき以外は。だからこうして横に並んでいるのがとても俺たちにはお似合いで嬉しいことだと思う。嵐山が覗き込んでようやく迅は嵐山を真っ直ぐ見て、それからまたすぐ横を向く。
「根付さんに怒られちゃったよ。あの件で」
「あの件って」
「乱交パーティー。……って嵐山には言ってなかったか。知らなくていいもんな」
「は?」
「それでさあ、唐沢さんおっかしいんだよ。『三門の街中でやるのはやめておきなさい。代わりに穴場を知ってるから嵐山くんとでも行けばいい。乱交なんてのは金輪際やめておくことだね、わかってるだろうけど』だってさ。上司に教わったラブホなんて誰が行くかよ気色悪い。これだからボーダーは特殊性癖の巣窟とか言われるんだよ」
特殊性癖の巣窟なんて醜聞はじめて聞いた、と嵐山は思い、思ったが言わなかった。衝撃の発言のきれいなコンボをまともに食らった嵐山は何も返せずそして動けなかった。動けないまま迅の言葉をおとなしく聞いた。
「だからさあ、逃げない?二人で」
「え?」
もう全部嫌になった。なっちゃったんだよ嵐山。だからどっか行こう。一泊分くらいの荷物持ってどっか行こう。後のことはどうにでもなるだろうしどっか逃げよう。どうとでもなるよ。全部どうにでもなるんだよ。俺がいなくたって。お前がいなくてもだよ。同じだよ。全部同じ。
それは迅悠一という人間に全く不似合いな言葉の羅列だった。責任感の塊の自分を、悲観主義の自分を、頑張って頑張って無責任な楽観主義に見せかけているような人間が発していい言葉ではなかった。完全な無責任になんて一生なれやしない隣にいる人間のことを想った。
なんて残酷な世界だろう。
そうか、そうだな。全部嫌になったな。全部逃げよう。全部から逃げよう。全部。な。迅の骨ばかりの肩を片手でさすった。もう片方の手も伸びて、やがて両手で迅を優しく抱きしめた。逃げないようにだけ、と思った。
「どこがいい?海?山?樹海?心霊スポット?廃墟?海?海?海?樹海かな、やっぱ樹海だよな、樹海!」
いつになく元気な恋人の足取りと声。その内容だけでも不安になるが、元気の正体すらも空元気なことは間違いない。未来視を持つ迅のことだ。より死に近い、どうにもならなくなって途方に暮れる、または事故に遭うようなルートを勧めてきているのだろう。海か樹海。どちらにしても己のタフさが試されることになりそうだ。
「そうだなあ、迅の好きな方がいいんじゃないか」
「お前に決めてほしいんだよ。俺が決めたって面白くないだろう?」
目を見合わせる。ポケットに手を突っ込んだ猫背の姿勢から上体を更に傾けて首だけで振り向く迅は気丈に振る舞ってはいるが確かにやつれていて、それでも美しい顔だと嵐山は思った。
「そうか。それだったら」
苔が張り巡らされている。歩を進めるにつれ、枯れ木の枝が多くなってくる。生きてるか死んでるかわからない、植物たちの無音の叫びが聞こえる。聞こえない。俺には全く聞こえないんだ。嵐山は心の中で慟哭する。いつから哭いているのかもはっきりしない。
樹海を選んだのは、海も山もどっちにも決められなくて、どっちの要素もあるような名前のものを言ったという実に優柔不断で間抜けな理由だった。考えてみれば一番死に近い場所である気もして選択を誤ったかとも思ったが、迅の反応を見てみなければわからない。
最低限の荷物をまとめて嵐山と迅は翌朝出発した。嵐山は家の者には黙って滅多にサボらない大学をサボり、少し本部に泊まるからと言って準備をした。迅はいつもの顔をしてそれほど大きくもないリュックにタオルや水や着替えを適当に詰め込んで出掛けた。いつも夜にヤボ用だの暗躍だの言ってふらふら出掛けている身だ。朝に少しの荷物を携えて玉狛支部を出る迅を心配する者など一人もいなかった。新幹線に揺られながら駅弁を食べて、道中旅を満喫した。
青木ヶ原樹海。俗称富士の樹海とも呼ぶその場所にわざわざ新幹線と電車を乗り継いで来たのは、どこでもないところに行きたかったからだ。恋人が、どこでもないところに逃げたいと言ったからだ。
案外というか案の定というか、樹海の入り口はしっかり整備されており、観光やピクニックでの利用も想定されているらしかった。ウィキペディアにも懇切丁寧にただの自然豊かな深い森ですと説明がなされているし、こんな状況でもなければ麗かにピクニックを楽しんでいたことだろう。ちなみに先程のいかにも樹海っぽいシリアスな文章は半分嘘、半分画像情報だけで構築した脳内イメージである。それっぽくないと盛り上がらないだろう。盛り上がらないのだ。今から盛り上がるところになるはずだ。心中しに来たくせに盛り上がる盛り上がる言うものでもないが。
「この遊歩道をそれて少し歩くだけで迷子になれちゃうんだってよ。どうする?」
先を行く迅が振り向いて言うので、「行くしかないだろうな」と返す。「流石潔いねえ」と笑われた。
道なき道を二人ずんずん進む。今度こそ苔が張り巡らされ、まっすぐに生えていた木も荒れ始め、枯れ木も多くなってくる。おかしな形にねじくれまくった大きめの木を見て迅が「ねえ見て、おれみたいな木」「首吊るのにちょうど良さそうだよね。あ、スニーカー落ちてる。泥だらけだ」などとへらへら笑いながら言うので、無理矢理手を繋いでやった。どこまでもどこまでも一緒に行こう、とジョバンニみたいなことを思いながら。
「ねえそろそろ迷子になったんじゃない?」
振り向くと森以外何も見えなくなっていた。建物も看板も遊歩道もない。少し薄暗くなってはきていたが、灯りの気配もない。念の為に小さい懐中電灯は持ってきてある。少し歩き回るのも怖くなってきた頃合いだが、どこかに進まないと来た甲斐もないだろう。
「……そうだな。どうだ?念願の樹海は」
「うん、樹海って感じでいいなあ。こればっかりは未来視の映像で見ても意味ないから。臨場感ってやつ?」
軽い肉体疲労のせいもあるのか、迅のテンションはすっかりいつもの調子に戻っている。ほっとしている場合ではない。次の窮地は既に来ているのだ。
「樹海ってさ、なんかもっと歩きやすいのかと思ってたよ。ごつごつしてて、これじゃ怪我して戻れなくなる人もいるんじゃないかな。看板には命を大切に、とか書いてあったりするけど、ここって逃げられない場所なんだよ。不可避の場所っていうか。なんか上手く言えないけど、そういう感じ」
迅の言葉をじっと聞いているときの嵐山が何を考えているのかというと、無力感に打ちのめされている、というのがおよそ八割を占めるだろう。迅は「お前はいるだけでおれの支えになってるんだよ。嵐山がいてくれておれは本当に嬉しい。いつも感謝してる」とまで言ってくれるけれど、何も出来ずにお前の話を聞いているだけなんて嫌だ。嫌だからせめて一緒に来た。何か出来る事がありはしないか、探すために来た。
「どこにも逃げられなくなってしまった人が、最後に来る場所なんだ。ここに来てまで、ああ、帰ろう、って帰り着く場所が、他に行く場所が思い浮かぶ人は、幸運だよ。逃げられなくなった人はここに逃げる。ここに着く。ここに「帰る」んだ」
誰の手も届かない、荒れ果てた死の森。命はかろうじて息づいてはいても、そんなに意味はない、ただ息をしているだけの森。枯れ枝が寄り集まって死体を腐らせて白骨化させる。逃げられずにここに〈帰った〉骨は、また逃げられず此処に来たものたちに見つかる。または地域住民の清掃活動によって痕跡を消される。骨まで片付けられるのかは知らないし、どこまでが事件になるのかも不明だ。迅は、ただ静かに腐っていけたらいいよな、と言う。俺は何も言えない。迅にどれだけ寄り添おうとすれば、寄り添ったことになるのかわからない。判別に悩んでいる。
「……迅。俺にはお前の気持ちはわからないよ。わかりようがない。同じものを見ようがないんだから。同じものを、もし見られる日が来たら、もしそんな技術がボーダーで開発されたら、俺は必ず見る方を選ぶよ。絶対に選ぶ。お前を一人になんかしたくない。みんなきっと思ってる」
「おれだって一人になんかなりたくないよ。みんなと一緒に笑いたいよ。だから」
「迅。お前の帰る場所はもうわかってるだろ」
「そうだよ。だからおれはとてつもなく幸運なんだ。帰る場所があるって言うのは素敵な事だよ。嵐山、お前が一緒に帰れないのが本当に残念だ。残念だからおれは時々本部に行くよ。仕事が無くたって、上層部に呼ばれなくたって行くよ。みんなと話して、尊敬されて、羨まれて、崇拝されて、嫉妬されて、そういうのはたまになら心地いいもんだ。でも調子に乗りすぎるっていうかな、あんまり仲良くしすぎると、いつもこうなんだ。人間が違うから。みんな違う人間だから。忘れちゃうんだ。なんで忘れちゃうんだろうな。さみしすぎるんだろうな。さみしいよ。嵐山、さみしい。此処に誰も来ないだなんてそんなのはさみしい。誰かが来てくれないかなって思うけれど、そんな曖昧な未来、探したって見つかるわけないんだ」
雨が降ってきて、上を見上げて話す迅の顔はしとどに濡れた。青い瞳の中にも赤く充血した舌にも雨粒は落ちて染み込んだ。ぬるいような、少し冷たいような雨が全身を濡らして冷え始めた頃になってようやく嵐山の口から帰ろう、と声が出た。
迅はそれから一時間立ち止まったまま、動こうとしなかった。

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