迅悠一は高いビルの屋上で人波を眺めている。遠景の中にいくつもの未来が見える。あまりにもたくさんあるのでそれは幻のように浮かんで消える。人間とおなじだ。目を合わせれば見えるし目を逸らせば見えない。見えなかったことになる。
障害のある人間にもやさしく渡るべき時間を知らせる歩行者用信号機の音。ざわめき。ビルの上は強い風が吹いている。
気分転換に良いこと探しをするのにも慣れた。良いこと探し、つまりは要するに良い未来探し。
野垂れ死んでいるホームレスの未来。食うにも困り万引きを重ねて売春に手を出す少女の未来。三門市の大通りを眺めているだけでは稀な未来だが、無いわけではない。連帯保証人になって家財をほとんど売り払ってしまう中年男性の未来。昼間の二時間ドラマのようにそれを見る。三門市の未来に然程関係無いと割り切って見ないふりをする。手を出してもどうにもならない。アドバイスをしたとしても変な目で見られるだけだ。機会があれば親切にする、くらいしか出来ることは無い。だから迅悠一は遠景としてそれを見る。
例外はボーダー関係のことだけなのだ。能力に理解がある環境だから出来ることがある。足掻けるだけ足掻くことが出来る。それが救いになる。
ビルから降りて、街中を歩く。ひとりの人間になる。ひとつの未来になる。出来るだけ良い未来になりたいと思う。もうひとりのおれが眺める、見つめる、発見する、出来るだけ良い未来になりたいと思う。もうひとりのおれなんていない。いないから迅悠一は本当はいくらだって悪い未来になれるのにそれをしなかった。やけになんてならなかった。それくらいは強いのだった。小さく小さく実験を繰り返して、それから得た大きな未来。
金木犀のかおりがどこかからしている。かおりの元を探して歩く。嵐山に会った。
「迅」
「嵐山。珍しいな」
黒いバケットハットと薄い色のサングラスをして嵐山は駅近くの路地の入り口に立っていた。迅と同じように人の群れを眺めていたらしかった。
「金木犀のにおいがしてさ」
「この辺りに生えてるのかもな。秋だなあ」
「うん、秋だ」
嵐山が腕を上げて首を掻いた。ふわりと香水が香った。
「なんかつけてる?」
「ああ、貰い物だよ」
唐沢さんからだったかな。嵐山によく似合う爽やかな、それでいて秋の風にも馴染む、少し男性的な落ち着いた香りだ。
「迅?」
「ああ、いや、地上にいるといろんなにおいがするな、と思って」
「地上?」
「さっきまで屋上にいたんだよ」
「なるほど。そうだな。排気ガスだってにおうし、金木犀だってにおう。迅はもっといろんなにおいにまみれるべきだな」
「まみれてるよ、じゅうぶん」
いろんなにおいにまみれている。いろんな事柄にまみれて、ぐちゃぐちゃになって、それでも立ち上がって、片付けて、整理して、歩いている。
「金木犀、まだ気になるか?」
手を握られる。
「いや、もういいよ」
嵐山と会えたんだから、もう他のことはどうでもいいよ。そう言うと、照れるな、と全く照れていないいつもの顔つきで返された。
探してもいいし、探さなくてもいいんだ。
良い未来を探す。きっかけを探す。鍵を探す。何かの在処を探す。そんなことばかりで疲弊した頭には嵐山も金木犀も排気ガスですら救いだ。嵐山と肩を並べていると思う。出来るだけ良い人間であろう。出来るだけ強い人間であろう。出来るだけ良い未来であろう。
全ては混ざり合って虹色になる。遠景の中のひとつの未来として、揺らめきの中を泳いでいく。
遠景と遊色
WT
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